今を生きていた自分が一番格好いい

振り返ってみると、今をただ全力で生きていた自分が一番格好よく思えた。高校時代はとにかくアホだった。遊んで遊んで少しだけ勉強して……。青春!って感じだけど、格好いいまではいかないかも。間違いなく格好良かったのは大学一年の時だろう。サークルもバイトも学業も頑張ってた。向上心も、何もかも凄かったと思う。いや逆に頑張り過ぎって諸刃の剣で、ここで頑張り過ぎたのが後の人生に影を落としたのかもしれないけれど、僕はいくつかの絶望を覚えながらも生きることをこなし続けた。そんな瞬間瞬間を全力で生きていくうちに、心も体もくたびれてしまって、ピタッと立ち止まった時を覚えている。冬くらいだったと思う。可哀想なくらい当時の僕は疲弊していたと思う。今、あの頃の自分を抱きしめてあげたい。頑張らないで、お願いだから。と泣きながら抱きしめたい。

でもあの頃の僕は格好いいな。

当時の僕は頑張ること、努力することに重きを置いていた。ひたすら一生懸命だった。もちろん今も一生懸命なんだけど、やっぱり全力の出力が全然続かない。すぐに疲れてしまう。ほどほどに頑張るってやり方を知らないんだ。ほどほどにやるってことは、ほどほどの努力で何かをこなす覚悟があるってことだ。でもぼくは何をするにも容量が悪い、マルチタスクが苦手、すぐパニックになる……ためにほどほどではやっていられない。失敗が何よりも怖い。この臆病さがあらゆることにおいて俺を縛っている。失敗が怖いの汎用性の高さは恐ろしい。行動には成功と失敗が内在している。その失敗を恐れて足がすくんでいては何もできない。だからぼくはめちゃくちゃ努力をする。成功確率を上げるために。結果として、心と体が疲れていく。ボロボロになって、おわっていく。

 

某元素として名乗ることをやめて随分と経った気がする。これからも名乗ることはないかもしれないけれど、いつか空白の○年間として、またエッセイとしてカクヨムに出せたら。文芸部は変化の物語だった。あれを読んで他人はどう思うだろう?主人公のぼくは、客観的に見ると大きな間違いを犯した場面がいくつかあった。それが、なんか今を生きている感じがあって良かった。失敗を恐れないぼくが確かにそこにあった。

そういえば文芸部のエッセイで書き忘れていたことが一つだけある。

 

最後の部誌、最高のものにするぞ!と思っていたんだけど、それだけは叶わなかった。最高とは思えなかった。自分の小説だけ見ると集大成!と思えても部誌として最高じゃなかった。チームのリーダーとして、モチベーターとしての課題が見えたと思う。人を引っ張ることは難しい。ぼくが最後に引退する時に、部長は向いていないと思った理由の一つだ。ぼくはリーダー向きの人間ではない。ただ厄介なことに、人に引っ張られたり何も考えずついていって活躍するタイプでもない……。

 

思い出話をしながら暗くなるのも嫌なので、次は高校時代のことを書こうと思う。とても恥ずかしいくらいの青春の一つ一つを思い出せる範囲で書けたら。こちらも恥ずかしいという理由から、きっとすぐに削除するだろうけど。

会社の休憩時間は超絶暇なので1ヶ月早いですが、簡単に今年の総括を。と言ってもわたくしはもう社会人。書きたくても書けないことが増えてきてしまっているのです。ああなんと悲しきこと。と言いつつなんとか社会人としてはやっていけそうだし最近楽しいです。毎日職場の人からはパワーをいただいています。仕事できて尚且つ優しい人が多い。

 

特に一つしか違わないのにリーダーを任されている人がいて、喋るたびに元気をもらうというか刺激を受けるというか。なんだか頑張ろうと思わせてくれる人なのです。

だからリーダーなんだろうけど。

 

早く色んな業務をこなせるようになりたい!と思いつつも今までの人生を反省して今年のテーマは焦りすぎない、まず落ち着くでした。焦るのは絶対に防げないので、焦った後のことをうまくやっていこう!というのがテーマでしたがこれが効果的で、うまく生活や業務をこなしていけたのかなと。

 

 

 

鯨 感想

 

 

 

 

『鯨』が一番よかった……

 作者さんは「いや他に一番がある」と言うだろうけどぼくは一番だと思います。結局一番ビリッと電流が流れた瞬間が多い作品を評価してしまいます。

 

 タイトルがシンプルな故に、始まり方の展開からどう鯨になるのだろう?と思っていましたが、ミサイルの象徴だったわけですね。鯨の絵が出てくるシーンで、急にゾワっとしたのは、それまでの地の文が上手いながらもとても静かだったからかもしれません。凪いだ海から、急にくじらが現れて襲ってくるような。

 

 あとは、「あの国」と「この国」という表記も好きです。どちらの国も「あの国」であり「この国」になるからです。例えばAというあの国と、Bというこの国があって、でも、Aの国からすれば、Bはあの国だからです。

 どちらの国が正義だとか悪だとかないように思えました。どちらの国もいい意味でも悪い意味でもあの国になります。書いてて頭がごちゃごちゃしています。

 

 神頼みをやめるについては、正直に言います、わかりません。わからないというのはどういう意図なのかっていう正解がわからないという意味です。コメント欄を読んでいたら、優しさに頼るのはやめるという意味じゃないかという考察がありました。それもあるなぁと思います。色んな人の解釈を聞きたくなります。

 

 正解は知りませんが答えを提出するなら、メメちゃんの言う神様とは、見た目とか関係なくハルトマンです。ではハルトマンは、神様なのでしょうか?ぼくは普通の人間だと思います。でもメメちゃんからしたら神様に思えたのかもしれません。きっと何かしらの希望を感じられたからでしょう。

 

 日本人は無宗教の人が多いです。ぼくもそうです。でも日本人は運に頼る時、お腹が痛い時、受験の時、勝負事の時、神様を頼ります。つまりメメちゃんからすると、ハルトマンの出会いが幸運だったのかもしれません。ラッキー。だから神様。神様は幸運を運んでくれるかもしれないから。

 

 でも神頼みはやめてしまいます。

 

 神様からの一緒に行こうという申し出を断ります。神頼みはもうやめた、と。ハルトマンは最後までメメちゃんにとっての神様だったかもしれません。あの時ついて行ったら、結構幸せな生活を送ることができたかもしれません。

 

 ただ絶望からくる神頼みかと言われると、きっと違います。

 

 演説ができたことは、きっと幸運だったでしょう。

 でもその演説では、指導は受けましたが、自分自身の言葉で話しました。メメちゃんはそこに可能性を感じたのではないかなーと思いました。幼い自分の言葉を真剣に聞いてくれた人。人が血を流す意味について考えてくれた人。メメちゃんにとっての希望は、そっちになったのではないでしょうか?

 

 きっと作者さんの意図通りではないでしょうけど、そんなことを考えました。

 

 というか、著者解題を見なくても、考えさせられる作品だったと思います。電流が流れる作品の他に、考えさせられる作品も評価します。そういった点では、頭ひとつ抜けた作品だと思います。のべチャレがどうなるかは分かりませんが、とてもいいサウンドノベルでした。

ダイパリメイクの件について

ダイパに関する思い出は膨大にありますが、多くは語りません。今回はリメイクについての映像が流れたので、それについて。

 

なんだあのSwitchの無駄遣いみたいなgmグラフィックはよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

冷静にダイパリメイクではなく一種のゲームとして捉えると現代のSwitchという媒体でやるにはあまりにもクオリティが低くないか?人物もよく見たら荒い。

 

映像を見る限り、どこからどう見ても、あの頃のダイパだ。

 

しかし。

 

あの頃のダイパをそのまま出すのなら、あの頃のダイパをDSでやればいいのでは?

 

なんで今更二頭身でやった?

 

我々キッズはキッズ故に「ダイパリメイク早く出せ〜!!」と駄々をこねていた。しかし我々ダイパキッズのほとんどは成人済み。20前半の人が主な層だろう。我々はキッズであり、キッズではないのだ。

 

故に。

 

ダイパを剣盾のグラフィックで!フィールドで!臨場感で!リメイクされたらいいなぁ〜!!!!!!!(もちろん音楽も神リメイク)

 

という細かい要望を出すほかなかったのだ。だって我々大人だし。

 

でもゲームフリークだって開発してるのは大人なんだから、キッズが何を求めてたかぐらい正確に把握してほしいものである。というかあれだけ熱望されたのにダイパリメイクが剣盾より「うおおおおおおお!!!!!!」という熱い感情を多くのプレイヤーに抱かせていない時点で、例え!あのリメイクを擁護する人がいようと!現時点では!失敗なのです。事実、YouTubeのコメント欄は荒れまくってます。きっとこれが剣盾のようなグラフィックでのダイパだったら、まあアンチはいるでしょうけど、自分語りコメで埋め尽くされていたはずです(俺のメンバーはゴウカザルムクホークトリトドンが主戦力で〜などなど)。コメント欄は今、どうでしょうか。剣盾の感じがよかったVSこれでいいVSダークライになっているのです。もうこんなの今の時点では失敗としか言いようがないですよ。

 

ぼくは剣盾はシナリオは最低評価ですが、その他の面では最高だと思っています。グラフィック、バトルの熱さなど。プレイしながら「これを基盤にダイパリメイク作ってくれるのかよ!!!!!サンムーンの時に作られなくてよかった!!!!!!」なんて思ったし実際に言っていました。

 

はーーーーほんとガッカリですよ。

 

というか、今一度ポケモンのリメイクを振り返ってほしい。初代の白黒がカラーになったファイアレッドリーフグリーン、なんならSwitchで美麗グラフィックと化したピカブイ。金銀は当時の最先端DSにしっかり合わさった神リメイクHGSSとなり、ルビサファも評価は高くないみたいですが、3DSの相応のグラフィッククオリティでORASが作られました。

 

で、今回のダイパリメイク。

 

ぜんっっっっぜん最先端の技術使えてない。

 

なんですか?あれ。ORASの頃まで戻っちゃいました?今現時点で作れる最高クオリティのダイパを作るのかと思ってましたよ。

 

ふざけんな!!!!!!!!!!!

 

なにが委託じゃ!!!!!!!!!!!!!

 

ダイパリメイクは発売日に買う予定でしたが、確実に発売日には買いません。ちょっと様子を見てから買います。

 

ちなみにぼくみたいな意見の人は総じてアルセウスを楽しみにしているかと思います。アルセウス、めっちゃ面白そう。こっちは絶対発売日に買う。楽しそう。ワクワク感がやばい。

 

ダイパリメイクには特有のワクワク感がない。

 

今擁護してる人たちも、あの頃のダイパには変わりないんだし、むしろこれでいい。ってことですよね?ぼくは進化とワクワク感を求めているんですよね、ポケモンに。

 

 

 

だから現時点での評価は「最低」です。

 

 

 

ぼくに神ゲーでした、すみませんでした!と謝罪の記事を書かせるくらいのとびっきり面白いゲームを開発してくれることをあまり期待せずに待ってます。

 

 

 

ふざけんな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!待たせてこれかよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

課題

 

 理論的に書くということは、至って難しい。さしずめパズルのように言葉を配置して、文章を紡ぎ、物語の形が浮かび上がることを、ぼくは美しいと思っていたし、そもそもなんとなく書いてなんとなく文章にしてなんとなく小説にして面白い!と言われる自信がなかった。

 

 しかし今でも自信はない。

 ただ、取り組んできたことは確かだ。理論的に小説を理解して、文章を書く際に注意すべきポイントを無意識のうちに抑えている。皮膚の下に潜り込んだ理論が土台となって、感覚的衝動的な文章が暴れるのをわずか止めてくれる。

 

 これからの課題としては、「あっここの言い回し地味にうまいな」という読者へのジャブである。理論的に書いていた頃も、ジャブ的な地味にうまい文章が書けず、苦労していた。パッと見て面白そうだな、という文章なら書けても、うまいな、すごいな、と思わせる技術にはまだまだ乏しい。もっと読んで、うまい小説を浴びて、理論を作って理解する。こうして、こうしたら、書けるのだという自分の中での軸を作るのが理論作り。それを意識しながら書いて書いて書いて……そして、全て忘れたように感覚的に書く。むろん本当に忘れてはいけない。勝手に思い出すまで、作った理論を意識する。その先にいい文章が待っている。

 

理論→感覚→理論→感覚

 

 天才じゃないぼくだから遠回りする。

 傲慢にならない。口では傲慢でも、心の中では謙虚に、謙虚に。常に文章でもストーリーでも何にでも飢えていたい。ある意味、自分が天才だと思えなくてよかった。ずっと凡才と思い続けることで飢えられる。しかし他人に一等星の扱いを受けても、嬉しくないことはない。もちろん嬉しい!がんばれる。でもそれにおごらず、やれるだけのことをやる。

 エッセイでは3日で30000字を書いたが小説は今のところ難しい。しかしエッセイも最初の30000字を越えるまではペースが上がらなかったし、書きたいところまでいけば、自ずとペースも上がるかもしれない。恐らく今は3000字程度が限界だけど、目標は常に5000字にはしておきたいし、書けば、その分書きたいところまで近づいていく。でも小説なので、やっぱり意識は大事。エッセイの時よりも、周りの景色……世界と人物が常に同時に存在しなければいけない。心情のからにこもった文章が案外評価されたエッセイだけど、今回は会話と描写と風景を優先したい。とにかく五感と動作の順番を意識して書く。この理論作りが様になってきて、30000字をこえたら、その時にまた一気に書いてやる。

二十二、二十一、退行

あーなんかもう恥ずかしいくらい

 

いけるような気がしてる

 

ずっと誰にも言わなかったし

 

今でも言えない

 

明日の朝恥ずかしくなる

 

いつものやつだとしても

 

ずっと今まで言えなかったし

 

サビですら言えない

『サタンズリベンジ』解釈【魔王の自覚】

 

 

 

 今回解釈していくのは、Mayo-Coccoさんの初のボーカロイド曲『サタンズリベンジ』です。

 

 

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https://youtu.be/88aMT2GbQzQ

 

https://www.nicovideo.jp/watch/sm37106322

 

 歌詞はYouTubeの概要欄に載っていなかったので、動画を停止しながら書き出して、解釈を進めていきました。

 

 この曲の歌詞の魅力は、なんといっても魔王のキャラクター性にあると思います。

 

 1番の歌詞で自身のことを世界最「恐」の魔王、幾百万の部下を従えていると歌っています。最恐なので、魔王の強さではありません。

 

 つまり魔王は「強くない」ことを「自覚」しています。

 

 ここはこの歌詞を楽しむキーポイントだと思っています。

 

 魔王は曲の1番のサビ前までで、勇者にコテンパンにやられます。魔王はこの事に対して「当然の結末」「自業自得の反省会」と歌い、ここで終局は許されないと勇者を倒すために立ち上がります。

 

 ……あれ? 努力家?

 

 実は結構いいヤツなんじゃね……?

 

 ぼくもそう思いはじめました。それに、なぜ勇者に倒されたのかきちんと自覚しています。

 

 2番に入り、魔王は過酷なトレーニングをこなし、最「強」の力を手に入れます。もう名声や部下の数に頼る己ではありません。本物の強さを手に入れたのです。

 

 そして努力の甲斐あってか、ついに勇者を倒します。こうして世界は闇に覆われましたとさ。めでたしめでたし。

 

 ではありませんでした。かわいそう。笑

 

 祝勝パーティーでは終わりにノクターンを流す音楽好きの魔王。しかし、そこへ倒したはずの勇者が現れます。魔王はその勇者の登場をさながら歌劇(オペラ)のよう、と歌います。やっぱり音楽大好きな魔王、ここまで来ると可愛い以外の何者でもありません。

 

 魔王はそこで自身の負けを悟ります。そして、負けを「妥当の結末」「理想のEnd」と歌います。魔王の自覚が顕著になっているフレーズではないでしょうか?

 

 基本的な勇者VS魔王の構図は、紆余曲折あった後に勇者が勝利して終わります。この曲もそうです。そのことを魔王は自覚しているのです。魔王は、勇者に負けるのだと。時の運命なのだと。

 

 最期に悪あがきとして、

「これで勝ったと思うなよ!」

 と、いかにも悪役なセリフを吐いてこの曲は終わります。そのセリフすらも魔王という立場を自覚したことからくるセリフなのかもしれません。

 

 

 

 

 いかがでしたでしょうか?

 

 比較的ストレートに楽しめる解釈で歌詞をたどっていきましたが、普段はもう少しひねくれています笑

 Mayo-Coccoさんの新曲が来て、またブログに書くとするなら、次はもう少しひねくれた楽しみ方をしようかなと思います。とても楽しみです。

 

 また、何人かの友達に布教したところ、とても良かった、スマホゲーのコンパスで流れてそう! などの感想をいただきました。確かにー!

 音楽的な面で好みを語るなら、ぼくはクセになるリズム感が好きでした。再生して数秒で、ああ〜いいな〜と思うくらいにはイントロの音が良かったです。